栃木県障害者スポーツ協会

tel:028-624-2761 メールで問合せの方はこちら

文字サイズ

文字サイズ小
文字サイズ大

第6回 増渕倫巳さん『あきらめない心』(1/3)

“スポットライト”第6回目は、2012年『ロンドンパラリンピック』に男子車椅子バスケットボール日本代表として出場した増渕倫巳(ますぶち ともみ)さんにお話を伺いました。増渕さんは、2003年に交通事故で車椅子生活を余儀なくされたものの、「障害者になったからこそ、できることをやろう」と心に決め、車椅子バスケットボール日本代表を目指しました。2008年『北京パラリンピック』では最終選考でメンバーから漏れてしまいましたが、その悔しさをバネに猛練習を積み重ね、その夢を実現させました。今回は、増渕さんにスポットライトをあて、代表を目指したときのエピソードや今後のことについて伺いました。
[聞き手:協会職員(小金沢)]

 

▼ロンドンパラリンピックについて

小金沢:『パラリンピック』は世界のトップアスリートだけが出場できる国際大会ですが、実際に出場されて、どのような大会でしたか?

増 渕:華やかで、楽しかったです。でも、実際に始まってしまうと、ロンドンという場所にいてバスケットボールをするだけで、『パラリンピック』ということはあまり意識しなかったと思います。


小金沢:あまり意識しなかったということでしたが、実際の試合に臨んで、平常心を保つことができましたか。

増 渕:平常心かどうか分かりませんが、あまり緊張しませんでした。気持ちは高ぶっていたと思います。すごく緊張した訳ではなく、良い緊張感で臨めました。

小金沢:増渕さんは開会式に出ましたか。

増 渕:はい、出ました。入場行進に参加しました。普通でしたら行進をして整列するのですが、翌日ゲームのある人は帰っても良いですよということだったので、そこで帰りました。その後は、テレビで楽しみました。

小金沢:ソチで『パラリンピック』が開催されましたが、ロンドンのことを思い出しますか。

増 渕:残念ながら、見れていないです。(ワッハハ・・・)

小金沢:わかりました。でも、増渕さんが車椅子バスケットボールを始めた頃と比べると、『パラリンピック』が注目されるようになったと思いますが、いかがですか。

増 渕:僕が始めた頃は恵まれていたと思います。車椅子は転倒防止のキャスターもありましたし、今のものと、あまり変わっていないと思います。もう少し前の先輩達から聞くとバンパーもなかったと言います。僕がバスケットボールを始めた頃は、「リアル」という漫画もあったし、浸透しつつあったのではないかと思います。

小金沢:ところで、増渕さんと対談する機会はこれまでもあったと思うのですが、なぜ今を選んだかと言いますと、『ロンドンパラリンピック』前あたりから言動が変わってきたように感じたからです。自分を追い込んでいる姿からストイックな印象を受けました。その増渕さんが『ロンドンパラリンピック』を経験して、どのように変わったかを知りたいと思いました。

増 渕:『北京パラリンピック』で最終選考においてメンバーから漏れた頃から変わってきていると思います。それまでは日本代表選手になりたかったのですが、なりたいだけであって、なるためには何を練習すべきかという考えが足りなかったと思います。日本代表になれなかったことで、何が足りなかったのかをより考えたときに、自信も足りなかったし、日本代表になるための覚悟も足りなかったように思います。もちろん日本代表になるためには練習をしなければならないということは分かっていたと思うのですが、何をすれば良いのかをさらに考えるようになったのはあの頃です。

小金沢:2008年の『北京パラリンピック』での最終選考に漏れたことで覚悟を決めたということですが、現在、『日本車椅子バスケットボール連盟』の会員数は679名いてクラブ数は77クラブ登録しています。日本代表選手は12名しか選ばれません。増渕さんはトップにまで登り詰めましたが、その努力は一言では語れないと思います。生活はどのように変わりましたか。

増 渕:時間は皆一緒ですが、人それぞれ仕事があれば、家族もありますし、使える時間というものは違うと思います。僕の場合は、バスケットボールで自分に足りないものを求め練習しました。そのときは、家族に協力してもらいました。

小金沢:自信が持てなかったということですが、技術で足りないものは何かということは気付いたのですか。

増 渕:シュート力もまだまだ足りませんでしたし、スピードも足りないと思っていたので、フィジカルのトレーニングとシュートトレーニングをしました。また、気持ちの面(メンタルな部分)でも練習をすれば強くなるという部分もあるので、そういうところは、トレーナーに相談しながら取り組みました。そこが一番大きいと思います。


小金沢:増渕さんは、障害を受けてから、わずか5年で日本代表候補にまで登り詰めました。しかし、『北京パラリンピック』のときは日本代表に残れませんでしたが、この結果は納得できましたか。

増 渕:半分は選ばれたいという思いはありましたが、半分は難しいだろうなと感じていましたので、結果については「仕方ない。」と思いました。

小金沢:そのときは、心は折れませんでしたか。

増 渕:そこまではなかったです。5年でそこまで行けたとうのは、運が良かったという気がします。障害を受ける以前にバスケットボールをやっていたということ、そして、バスケットボールが好きだったことで、入りやすかったと思います。また、障害の程度で言えば、車椅子バスケットボールの障害区分(持ち点)が3という区分ですが、その当時は、その区分の人が少なかったように感じます。

小金沢:『ロンドンパラリンピック』の結果は9位でしたが、この結果については、どのように感じていますか。

増 渕:あの時の実力だと思います。

小金沢:対戦前には相手の情報が入っていたと思いますが、自分が思い描いた結果と違っていましたか。

増 渕:そうですね。思い描いていた結果と違っていました。自分達の描いていたプランとは違っていました。

小金沢:もっと具体的に話していただけますか。

増 渕:自分達のプレーをやり切れていなかったと思います。相手が上だったとは、必ずしも言い切れないと思います。また、相手が上だと認めてしまってはそれ以上の進歩はありませんし、自分達はもっとできたと信じています。

小金沢:2020年に東京で『パラリンピック』が開催されることになりましたが、日本が世界と対等に戦って、メダルを獲得するためには何が必要だと思いますか?

増 渕:バスケットボールは、やはり「高さ」は有利です。高くて、動けるというチームは強いです。上位のチームは、高くてスピードもありますので日本は苦戦します。日本が上位になるためにはスピードが必要だと思います。やはり、アメリカやカナダはフィジカルもすごいですが、スピードもあります。日本は、さらに上のスピードを求めなければならないと思います。切り替えのスピードだったり、判断のスピードだったり、もっとスピードを上げることが必要だと思います。自分は、一歩でも早く判断して、相手より前に行けば点が取れると思います。守る場合も、今どこが危険かという判断を早くして、早く切り替えることができれば結果は変わっていたと思います。そこは、今後向上させなければならないと思います。でも、外国の選手は、フィジカルが凄いです。カナダの選手は、体が大きいし、スピードも早いですし、車椅子操作やボールハンドリングも凄いです。

小金沢:『ロンドンパラリンピック』については、楽しかったということですね。

増 渕:そうですね。そのような素晴らしい選手と勝負できて、楽しかったですね。トップのレベルの試合に一緒に入れたというのは楽しかったですね。

 

▼車椅子バスケットボールの魅力について

小金沢: 増渕さんは、障害を受ける前、具体的には高校生のときにバスケットボール部に入っていたと聞いています。残念ながら、2003年に交通事故で車椅子の生活となってしまいましたが、再びバスケットボールをやってみたいと思ったのは、どういったことがきっかけだったのですか。

増 渕:はじめは無かったです。怪我してまで何かをやろうとは思っていませんでしたね。きっかけは色々ありますが、車椅子バスケットボールの試合を観戦して感じたのですが、凄く一生懸命でした。もちろん、練習を見ていても同じように感じました。真剣に競技するところから生まれる楽しみというものがあります。僕の場合、そのようなバスケットボールに魅かれます。また、部活みたいにバスケットボールがやりたいと思って、車椅子バスケットボールを始めました。たまの休日に野球のかっこをして家を出てゆく大人の人達がいるじゃないですか。そういうのも良いなと思って始めました。

小金沢:スポーツの種目はたくさんあると思うのですが、他のスポーツは考えませんでしたか。

増 渕:僕の場合は、選択肢が少なかったです。障害を受けて、バスケットボールがあると言われて見学にいって、そのまま始めたという感じでした。車椅子になってしまったからこそできることがあるだろうと思います。だから、車椅子になってしまったからこそ、車椅子バスケットボールで日本代表選手になろうと思ったのだと思います。


小金沢:増渕さんは、「車椅子バスケットボールの日本代表選手というのは、車椅子になってしまったからこそ持てた夢であった。」と話をされましたが、人間はそれほど強くないと思います。やはり、気持ちを整理するのは難しい作業であると思います。大変な道のりだったと思います。前を向いて進めたのは「車椅子バスケットボール」の存在が大きかったのでしょうか。

増 渕:バスケットボールをやっていたからこそ海外にも行けました。車椅子生活になれば行動範囲が狭くなると思うじゃないですか。それが、バスケットボールを始めたら、今まで行ったことがない海外まで行けるようになりました。そのときは車椅子バスケットボールを始めて良かったなと思いました。

小金沢:実際に、車椅子バスケットボールをやってみて、はじめの頃はどのように感じましたか?

増 渕:はじめての頃は、シュートも届きませんでしたし、自分が行きたい方向にも行けませんでした。その当時の記憶があまり鮮明ではありませんが、はじめは苦しかったですね。実は、毎日のリハビリで約1時間は砂袋を引っ張っていましたので、ある程度は走れると思ってました。シュートフォームも知っていましたので、シュートも入ると思っていました。車椅子バスケットボールは、ルールではダブルドリブルの反則がありません。一度、車椅子を停止させても、また動き出すことができます。これまでの経験から、シュートは「タン、タ、ターン」という感じで打っていましたので、なかなかシュートができませんでした。「いままでのバスケットボールとリズムが違うな。」と感じました。また、僕よりも障害程度が重い人もいたのですが、その人にスピードで負けてしまって、全然追いつけませんでした。僕は、100%の力を出しているのですが、「もっともっと車椅子をこげ」と言われました。そのときはもっと頑張るのですが、追いつけませんでした。とにかく疲れましたし、練習が終わったら肩もあがりませんでした。始めの頃は、「つらいな!」という感想でした。

小金沢:それが面白く変わってきたというのは、いつ頃からですか。

増 渕:最近ですかね。バスケットボール自体は、面白かったですが・・。たぶん、自分のイメージに近づいてきたからだと思います。自分のイメージどおりに行くということは、これまでずっと無かったですね。少しでも自分のスピードに余裕がなければ、その場所に到達したくても途中で止められてしまいます。それ以上に進むことはできません。そんなバスケットボールが続いていて、辛かったです。もし、相手を超えるスピードを持っていれば、そのぶん楽にできて、次のことも考える余裕もできて、きっとバスケットボールの幅が広がると思います。昔は、そんなことを考えて坂道ばかりを走っていました。

小金沢:自分のプレーの特徴というのは言いにくいことかもしれませんが、どのようなところが良いと思いますか。

増 渕:切り替えのスピードがある方だと思います。ディフェンスからオフェンスの切り替えが早いと思うので、フリーでランニングシュートに持ってゆく回数は多い方だと思います。それとボールハンドリングとドリブルが好きなので、キープすることは得意な方だと思っています。

 

<増渕倫巳(ますぶち ともみ)さんのプロフィール>

生年月日:1977年2月12日(年齢37歳)
住所:宇都宮市
職業:公務員
障害名:両下肢の機能の著しい障害
趣味:料理、アウトドア、 スポーツ観戦(サッカー日本代表の試合は欠かさない)※サッカー日本代表では本田選手、長友選手のファン
家族構成:祖母、父母、妻、娘
競技歴:10年
好きな言葉:初心忘れるべからず(世阿弥の言葉)、有言実行
愛読書: 置かれた場所で咲きなさい(渡辺和子:著)
よく聞く歌:THE BLUE HEARTS、LM.C
好きなタレント:堀北真希
主な成績:
2006年 フェスピック競技大会
2008年 日本選抜車椅子バスケットボール大会 優勝
2010年 車椅子バスケットボール世界選手権大会 10位
2010年 広州アジアパラリンピック
2012年 ロンドンパラリンピック
2013年 日本車椅子バスケットボール選手権大会 優勝

( 2/3へ続く)