栃木県障害者スポーツ協会

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第4回 金田典子さん『シッティングバレーボールで世界に挑む!』(1/2)

 “スポットライト”第4回目は、「シッティングバレーボール」日本代表女子チームで活躍中の金田典子さん(日光市在住)に登場していただきました。
金田さんは、小学校でバレーボールを始め、中・高では日本の選抜チームの一員として世界遠征にも参加した経験をお持ちの方です。
高校卒業後は、名門日立製作所のバレーボール部に入り、三屋祐子、江上由美(旧姓)、中田久美らの名選手とも共にプレーしましたが、日立入部から2年が過ぎた20歳のときに病が発症し、一旦、選手としての道に終止符を打つことになりました。
今回は、金田さんにスポットライトをあて、「シッティングバレーボール」を始めたいきさつや、来年のパラリンピック(ロンドン大会)のことについて詳しく話を聞きました。[聞き手:小金沢(栃木県障害者スポーツ協会職員)]

 

▼広州アジアパラリンピックについて

小金沢:今日は、「シッティングバレーボール」の魅力やパラリンピック(ロンドン大会)のことについてお聞きしたいと思います。はじめに、昨年(2010年)の『広州アジアパラリンピック競技大会』の話からお聞きしたいと思います。予選リーグで「中国」「イラン」「パキスタン」「モンゴル」と戦いました。
「中国」は実力では世界一だと聞いていますが、いきなり予選で対戦することになりました。セットカウント「0-3」で敗れましたが、予選は2位で通過しました。そして、決勝トーナメントでは、再び「中国」対戦することになりましたが、予選とは違った試合内容だったようですね。

金 田:はい。「中国」は、パラリンピックでは『アテネ大会』『北京大会』と連覇したチームです。また、去年の夏の『世界選手権』でも優勝しているチームです。世界ランキングでは、ダントツの1位です。『北京大会』の「中国」の印象は、“スキのないチーム”という感じでした。 「どうしたらこんなに強いチームになれるのだろう。」と真剣に考えたほど「日本」とは差があったチームでした。
『世界選手権』で「中国」は優勝して『パラリンピック(ロンドン大会)』の出場権を獲得していましたので、『広州アジアパラリンピック』については、 もっとメンバーを落として参加するのだろうと思っていたのですが、『世界選手権』のときのメンバーと同じでした。
「あれ?中国は人材が沢山いるはずなのに、どうしたのかな。」と思いました。一番の原因は、国費(強化費)の削減だったようです。『北京大会』のときは、あの広い国土を端から端まで選手を探したそうです。探し当てた人にまで賞金が出たという話も聞きます。しかし、国費の削減により、『広州アジアパラリンピック』は、“上海”の街の中で探すのが精一杯だったようです。その結果、チーム力も下がってしまったようです。『広州アジアパラリンピック』の決勝ですが、「中国」は、きっと『世界選手権』のようにメンバーを落としても「日本」には勝てると考えていたと思うのですが、「日本」にセットカウントを奪われたことで、途中から主力級の選手を投入してきました。本当ならば、若い選手に経験を積ませたかったところだと思うのですが、試合の流れが日本に来ていたことで、「このままでは負けてしまうかも!?」と思ったのかなと感じました。その後の試合展開は、「中国」にしてみれば厳しかったと思います。あきらかに「中国」ベンチの雰囲気は、このままでは「日本」に負けるかもしれないと慌てていたと感じました。

小金沢
:「中国」を本気にさせた訳ですね。結果は、惜しくも敗れましたが、2位(銀メダル)でした。決勝のセットカウントは「1-3」で、予選では完敗だった「中国」から1セットを奪いました。内容もとても良かったということですね。

金 田:『広州アジアパラリンピック』は、戦前では「中国」と「日本」と「イラン」の3つ巴と言われていた大会でした。余談ですが、「イラン」の男子チームは、世界ランキングで1位のチームですが、国内では、日本のアイドルで例えるならば「ジャニーズ」のような人気です。それは、“駅”とか“空港”では、選手の大きなポスターを貼っていて、すごい人気のようです。国民の多くが応援しているそうです。

小金沢:「日本」では考えられないような話ですね。ところで、金田さんは、これまで多くの国際試合に出場していますが、『2002年世界選手権(スロベニア)6位』、『2008年パラリンピック(中国)8位』『2010年世界選手権(アメリカ)9位』という素晴らしい成績を残しています。
女子の「シッティングバレーボール」が、『パラリンピック』の正式競技となったのは2004年の『アテネ大会』からです。このときは、残念ながら、「日本」は出場できませんでした。 「日本」が、最初にパラリンピックに出場したのは『2008年(中国・北京)』からです。そのときから、チームも成長したと思うのですが、現在、世界で何番目くらいにいるのでしょうか。

金 田:今の状態ならば、5本の指に入れるのかなと感じます。「中国」「オランダ」「アメリカ」「ブラジル」「日本」が5本の指に入るのではないかと思っているのですが、最近、「ブラジル」は、国費で選手強化をしているので強くなってきています。『世界選手権』では「日本」は勝ちましたが、今後ますます強くなるだろうなと感じています。「オランダ」「アメリカ」についても同様に強化しています。ヨーロッパは、国同士がくっついているので、「日本」が東京で合宿するイメージで、近隣の強い国にも簡単に遠征に行けるので強いです。

 

▼世界と対等に戦うためには・・・

小金沢:バレーボールは、身長が高い選手が揃っている国が強いだろうと思いますが、身長で勝る世界の国々と「日本」が対等に戦うのには、何が必要なのでしょうか。

金 田:「オランダ」「ロシア」と「日本」では、国民の身長差は10cm以上あるようです。障害を持っていた場合でも座った状態でも身長は高いのです。バレーボールでは、「日本」は高さのあるチームから点数を獲るためには、選手が素早く移動したりジャンプをして工夫していますが、シッティングバレーボールの移動は、“手”とか“お尻”で行なうので、倍の速さで動くなんてことはできませんので、「日本」が世界との差を縮めるのは大変です。世界と対等に戦うためには、相手の高いブロックを利用することも「日本」には重要ではないかと思います。

小金沢:シッティングバレーボールのルールを読むと、“サーブ”から“ブロック”をしても良いことになっています。それを利用した戦い方をするのですね。

金 田:はい。“サーブ”をワザと“ブロック”に当てて、コートの外に出してしまうこともあります。

小金沢:競技人口が増えればそれだけ競技のレベルというのは高くなってくると思いますが、「日本」も相当にレベルアップしているのではないかと思います。

金 田:今は、バレーボールやサッカーの試合でもコンピューターを持込み、対戦情報を入力して即座にインカムでベンチに流しているのです。それを“シッティングバレーボール”の世界でも取り入れるようになってきていますが、「日本」も今回の『アジア大会』で初めて取り入れました。

小金沢:そうですか。大変興味深い話ですね。

金 田:ベンチではコーチがインカムを付けて、観覧席ではアシスタントコーチがパソコンを持って情報を伝えるのです。例えば、次に「サーブ」を打つときには、ストレートに狙ってくださいとか指示が来るわけです。「日本」は海外遠征の経験が少ないから対戦相手のデーターが少ないのです。もっと、普段から地域の人達と対戦できる環境にあれば良いと思うのですが、現状では厳しいです。それにはお金がかかります。とても自費では賄いきれません。また、会社を休んで子供を預けて、遠征することは年に何回もできません。私も年に3回くらい国際試合があれば行きたいけれど無理です。

 

▼シッティングバレーボールとの出会いについて

小金沢:シッティングバレーボールとの出会いについてお聞きします。小学生でバレーボールを始め、中・高では日本の選抜チームの一員として世界遠征も経験しました。高校卒業後は『日立製作所』に入り、三屋裕子、江上由美(旧姓)、中田久美らの名選手ともプレーしたと聞いています。しかし、『日立バレーボール部』入部から約2年が経過した20歳のときに病が発症し、現役続行を断念しましたが、バレーボールに没頭する生活を失う現実を受け入れられなかったと聞いています。そのような苦境から再びスポーツを始めようと思ったきっかけは何だったのですか。

金 田:「JAPAN(ジャパン)のユニフォームの重さに魅かれたのかなと思います。たぶん、健常者のときに『オリンピック』に出ていてメダルを獲れていたならば、今と同じような状態になっていたとしても、たぶんバレーボールをしていなかったと思います。やはり、目標である『オリンピック』に行けなかったことや“A代表”のメダルが無かったことがあったからだと思います。私は、“ジュニア世代”で世界一になった経験があります。横浜の大会です。でも、やはり“ジュニア”と“A代表”とでは差があり、『オリンピック』はさらに差があると思います。一番最高峰の大会に出場していないのです。ジャパンのユニフォームというのは、すごく大切に思っていて、小学校の頃からの憧れの存在です。それが、「もしかして、またジャパンのユニフォームを着ることができるかもしれないよ」と誘われたことが、再びバレーボールを始めるきっかけとなりました。“JAPAN”の入ったユニフォームを再び着てプレーした喜びは今でも忘れません。今までシッティングバレーボールを続けている理由です。

小金沢:スポーツなんか、もうやりたくないという気持ちになりませんでしたか。

金 田:はい。なりましたよ。もう見るのも嫌になりました。テレビもつけていませんでした。

小金沢:そのような苦しいときを、どのようにして乗り越えたのですか。

金 田:始めは、障害者手帳も申請していなかったです。状況を受け入れられられませんでした。あるとき、松葉杖で歩いていたときに足が動かなくなって転倒して入院したのです。それで、障害がない方の足を怪我してしまったのですが、それでも懲りないで松葉杖で歩いて“手”も怪我してしまったのです。 “手”は神経が切れていて、手術したのですが真っ直ぐになりませんでした。
そのときです。主人に「何で現実を見つめないのだ」と言われました。「医師からは車椅子に乗った方が良いと言われ注文までしたのに何故使わないのか」と言われました。 「医師は、元の足に戻るのだったら車椅子を注文しろとは言わない」と言われました。「障害者になる前のことを考えるよりも今のことを考えないか」と真剣に言われました。そして、それから1週間後くらいにあったのが今市市(現:日光市)の障害者スポーツ教室(フライングディスク教室)に誘われて参加したのです。

小金沢:そうだったのですか。私と金田さんとの出会いだったですよね。

金 田:親しくさせていただいている身障手帳1種1級の車椅子の方がいるのですが、その方から「手帳の等級は3級ですよね。1分で良いからスポーツ教室に参加しませんか」と誘われました。

小金沢:そうだったのですか。その言葉から色々なことが始まったのですね。

金 田:フライングディスクは、人生で初めてのスポーツでしたが、そのときは、これ程にできないスポーツがあったのかと思いました。

小金沢:確かに。言われてみると「そうだったかもしれないな」と少しずつ思い出してきました。

金 田:テニス、卓球、バドミントンなど何でもそれなりにできるのです。それが、フライングディスクだけは上手にできませんでしたね。それでも、そのときに、市役所の人から「秋に県大会があるので出てみませんか」と誘われました。こんなできないのだから練習しなければと思いまして、皆を集めて練習するようになりました。その甲斐あってか、そこそこできるようになりました。

小金沢:ディスタンス(遠投)の世界記録保持者が何をおっしゃりますか。

金 田:その頃に、全国組織の「障害者フライングディスク協会」も設立され、『全国障害者スポーツ大会』が始まりフライングディスクが正式競技になりました。 “フライングディスク”の日本の第一人者という方とも知り合いになり、アドバイスをいただくようになり健常者大会に出場することになりました。そして世界記録を出すことができました。

小金沢:お話を聞いていて、前回の駒﨑さんとの対談を思い出しました。読んでいただきましたか。

金 田:はい。

小金沢:金田さんと駒﨑さんの話には共通部分があるなと感じました。それは、「家族の支えがあったからここまで来れたということ」や「スポーツに取組むようになって出かけるようになり沢山の人と出合ったこと」です。金田さんは、フライングディスクを始めるようになってから沢山の人と出会うことができました。そして、県大会に出場したりと、これまで無かったことが起きるようになりました。

金 田:そうですね。私という人間は、家の中に閉じこもっているようなタイプではないのです。それが、「障害者になったことで、バレーボールを奪われて、何か人間そのものが変わってしまって駄目になってしまった」と思ってしまったのです。それを小さい頃からずっとバレーボール一筋でやってきて、それが無くなってしまって、人間としても何か「ストーン」と抜けてしまったような感じになってしまったのです。

小金沢:無理もないです。

金 田:けれど、結婚して子供もできて親になり、旦那の応援もしなければいけないし、いろいろやらなければならないことができてから変わりました。家族には支えてもらわないといけないし、支えなくてはならなくなりました。自分が応援してもらうばかりでは駄目だと気が付いたのです。私は、県スポ大会に参加して、積極的にお手伝いするようになりました。手話で会話して聴覚障害者を支援するようにもなりました。

小金沢:素晴らしいですね。障害を受けてからは自分のことで精一杯な状況だったと思うのですが、沢山の人達と出会って、自分の障害を見つめなおすことができたわけですね。

金 田:そうですね。自分の障害はまだまだ軽いと思えました。障害を受けて、本当に悲劇のヒロイン的な感じになっていたのです。何で、今、自分にこのような試練を与えるのだろうかと思いましたが、そのようなときに御世話になったリハビリの先生から「試練は、神様が選んだ人にしか与えない。乗り越えられる人にしか試練は与えない」と言われてました。でも、そのときは、私が与えて欲しかったのは「ジャパンのユニフォーム」であって、リハビリの先生の話は理解できませんでした。それから『パラリンピック』にも出場できるようになり、最近になってそれが分かるようになりました。日本よりも国力のない地域の代表者が、『パラリンピック』で松葉杖や車椅子を始めて見たとか、内戦で子供を失いながらも家を失いながら出場したとか、もっと練習したかったのに徴兵制で練習どころじゃなかったけれども期間が終わって何とか大会に間に合ったと言うような人もいました。私は、まだ恵まれているのだなと感じました。この年になって分かったことですが、当たり前だと思っていることが当たり前でないことって沢山あるのだなと感じました。

小金沢:駒﨑さんも同じような話をしていました。「障害を受けてから自暴自棄になってしまったこともあったけれど、水泳に出会ってから変わった。大会に出場してみたら、自分より重度の障害者が頑張っている姿を見て、自分の障害を見つめなおすことができた」と言っていました。 「ひょっとしたら交通事故で無くした命だったかもしれないと思うことで、今の自分は生かされているのだ感じる」とも言っていました。大変印象深い話だったです。金田さんのお話を聞いていても同じように感じているのだなと思いました。

金 田:やはり、そう思いますね。この前あった話ですが、私がスーパーに車で買物に行ったときに、車椅子で買物している姿を見ていた方が、「偉いね」と言われたことがありましたが、そのことは嬉しくないのです。

小金沢:障害を意識し過ぎているのですよね。

金 田:はい。その他にも「若くて車椅子に乗っていてかわいそうにね。」とか言われることもありました。

小金沢:駒﨑さんも、練習でプールに行ったときに同じような経験をしたようです。普通に接して欲しいと言っていました。

金 田:私にそれを分からせてくれたのは、フライングディスクやシッティングバレーボールを通して知り合った仲間の存在です。本当にラッキーだったと思います。『パラリンピック』に出場したことで小・中学校などに呼んでいただくことが増えたのですが、子供達からパワーをいただいています。その経験は、障害者になったことでできた経験であって、私が健常者であった場合にできなかった経験かもしれません。すべてが良い方向ではないですが、最近は「車椅子になってラッキーだったかな」と思うこともあります。事実、小・中学校に行った後の練習では、すごく調子が良いのです。若い子からパワーをもらって元気になっているのかなと感じます。

 

<金田典子(かねだ のりこ)さんのプロフィール>

1964年2月21日生まれ。47歳
現住所:栃木県日光市
出身地:徳島県鳴門市
障害:一下肢機能全廃(左)一下肢の膝関節の著しい機能障害(右)(下肢装具使用、手動車椅子)
趣味:シッティングバレーボール
家族構成:夫、長男
競技歴:9年
成績:
2002年10月 世界選手権 6位 ~スロベニア・リュブリャナ
2008年9月 パラリンピック 8位 ~中国・北京
2010年7月 世界選手権 9位 ~アメリカ・オクラホマ州
2010年12月 広州アジアパラリンピック 2位 ~中国・広州
2011年11月 アジアチャンピオンシップ 3位 ~中国・北京

( 2/2へ続く)